| 2008年10月22日Vol.23 |
最近の私
多くの人に私という人物を理解してもらうには、少々時間が掛かるようだ。多面性があり3分で自分を紹介することは難しい…。 しかし、これからの時代、本当は自分のような人材が必要とされるに違いないと信じ、日々、歯を食い縛っている。 この多面性は先天的であり、後天的に導かれて行ったところもある。私は音楽家であり、地域活動の実践家でもある。 現在、私の関心は社会学的見地で、社会構造、人の思考、多様性の存在などを意識し、個々に「違いがあるのが普通だ」と自身に言い聞かせながら思考、行動するように努めている。
ワークショップの目指すところ2年前より音楽分野で世界を代表するオーケストラ、ニューヨークフィルと協働事業を行っている。それは音楽を活用した教育プログラムで、学校における音楽教育に有益なだけではなく、文化行政がよく唱える「文化芸術によるまちづくり」に、非常に有益なミッションと手法の普及を展開する事業である。このことを多くのクラシック音楽無関心層、あるいは音楽に従事する人たちに伝えると、「ああ、それは音楽普及活動ですね」とイメージされることがある。ところが、私達の挑んでいることはそのような一次的な目標ではない。大体、「文化芸術によるまちづくり」とは芸術業界にしてみれば、補助金獲得目的として歓迎するだけで、真の目的を見ていない。また、行政も「まちづくり」の目指す姿を描けているわけではない・・・。つまり、海外事例の導入だけで、わが国の実質に合った手法は見出せず迷走のままである。また導入事例を評価することもない。言ってみれば、導入による新たな予算流通が発生するだけで、それが目的なのだろう…。 話を元に戻そう。私達はその一次的な目標を超え、音楽ワークショップによる人材教育に視野を向けている。つまり芸術体験で創造力を高めることは思考力を深め、そして表現や個性の多様性を知ることで理解力、コミュニケーション力を向上させる。そんな市民が育ったとき、それは地域再生や国際感覚ある人々の集う“まち”となるわけで、「まちづくり」とは「ひとづくり」なのだと考えている。 外国語に弱いにっぽん!世間には「パートナーシップ」「コラボレーション」「ボランティア」など正体不明な言葉と行為が華やかに飛び交っている。私もその担い手の一人である。しかし、それらはとても曖昧で、それ故、割り切れない思いの方、身銭を切っている方が大勢いると思う。 これもまた、その名前だけが先行し、行政などが理念構築を充分しないまま取り上げた産物である。私の活動領域では「アウトリーチ」という言葉が間違って導入されてしまい、ミッション無き活動と、不思議なキャッシュフローが存在している。そのような様々な実際があるなか、私達はその状況にただ異議を唱えても、仕方が無いと最近考えるようになった。確かに「ボランティア=無償」とか「有償ボランティア」という日本的概念が存在することには異議を唱えたい。しかし、それが日本特有の思考なのではなかろうか…。 私は現在、ティーチング・アーティストという人材の概念導入、育成、それによる波及効果など、社会的意義を強く信じ、この種の人材確立を目指している。しかし、これを魂ある仏にするには、日本人の思考を勘案しながら適切なプロセス、社会的な理解獲得を心得なければ形骸化される可能性が充分ある。私はこの点について大きな懸念を抱いている。文化芸術活動に密接な文化政策の領域では、多くの海外事例導入において、文化芸術活動の実際の担い手の状況を知らない方々によって思考がされている。そのため、活動という現場の実践者、あるいはその活動に接する市民の実態を熟知しないまま、事業提案され実施されていくことが往々にある。もしかすると、これは社会貢献活動の現場でも同じではなかろうか? この問題点を考えるにあたって、視点のフレームを変えてみる。すると海外の事例とは、海外の人々の思考、社会環境のもとで育まれたものである。そこには宗教、思想、哲学、美学、生活様式、言語構造などなど、多種に渡る日本人とは違う要素が存在している。その一方、私たち日本人も優れたバックグラウンドと能力を携えて、この国に営んでいる。さらに江戸期までは海外の様式を自然に取り入れていたのに、明治期以降、なにかギクシャクしている点が見えてくる。 理解ってなに???海外との協働ワーク、交渉をしていると、いつも思考、文化の違いに悩まされる。そんな時、私は相手を知ることに努める。その延長線で私自身を相手に知らせようと心がけるが、どうもそれは適切な思考ではないようだ。私は日頃、「他者理解」「相互発展」「相互共益」等の理念を掲げ地域コーディネート活動をしている。そのため「他者理解」の「理解」にこだわろうとする傾向がある。ところがこの「理解」、自分の思考を基準に「理解」を得ようとしたら、なにも成就できない。ただ、ストレスが溜まるだけである。 私が海外との交流で知り得たことは、「理解し合えないこともあることを理解する」ということであった。これを自分の思考に取り入れたとき、ポジティブ思考の感覚を得たような気がする。そして「共存」という言葉を自分に言い聞かせている。海外との交流のみならず、地域活動においても様々な思考の人物、思惑、しがらみに出会う。そんなとき自分の活動理念に固執すると難しさを極める。そんな自分に言い聞かせることは「共存」だ。「この人と共存するには、どのような観点で共にしたら良いだろうか」と視点を変える。それが実現できたとき、実は自分の信念を曲げること無く、しかも両者の立場を侵すこと無く新たな発展になっている。それを教えてくれたのはアメリカという風土なのだろう。 ミッションを社会に伝えなければ…にっぽん流社会活動…、どのような道を歩むのだろう。べつに西洋風な社会貢献に捉われる必要はないし、社会構造が違うわけで極めて難しい。日本人としてのあり方もあるだろう。ただ、活動にはそれを行う資金と、その活動に対する対価を得なければ継続が出来ない。このようなことを自分で書いているのは自身の現実とかけ離れ苦笑いであるが、社会貢献活動とは、一般活動より、よりお金が必要なはずである。それはきめ細やかで、非再生産的な活動を自他のために行うからだ。社会貢献活動は継続をしなければ社会に貢献できない。つまり活動には社会的な責任が生じる…。 なぜ「くらしに音楽プロジェクト」という脆弱なNPOに、世界を代表するNPOでもあるニューヨークフィルがパートナーシップを結ぶかというと、それは「哲学」の共有があるからだ。ニューヨークフィルは教育活動でも世界の芸術団体のお手本である。1880年代から教育プログラムが存在し、世界中の芸術団体、教育組織に影響を与え続けている。それは社会活動であり、社会評価、支援を獲得するための彼らの責務でもある。そんなニューヨーク・フィルが私共のNPOに支援を始めようとしている。それは「共存」のためだ。ミッションの同じ者が相互発展し、共通のミッションを達成していくことを望んでいる。 私は日本のみに展開を考えているわけではない、ミッションの同じ者と世界発信をし、相互理解をしていくつもりだ。そうすることが国際社会で生き抜く日本人を増やしていくことに繋がると考える。また、この国の風土にどのように挑み、そして日本の良さを理解しながら「協調」というアンサンブルをどのように奏でるかが、私自身の課題であると思う。最後になるが、私たち実践家は現実の状況を論理的にも唱えて社会からの支持を得ながら、行政や企業、研究者達に最善の認識を抱かせていくことが大切だと思う。 |
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