
芸術家、というと、どんな人をイメージしますか?歌う人、踊る人、絵を描く人、演じる人、言葉を紡ぐ人…。芸術家とは何か、といってもひとことで説明するのは難しいのですが、私は「命を削って魂を込めて、新しい価値を生み出し、人の心を揺さぶり、社会に刺激を与えることを託された人」だと思っています。私にはそんなことはできませんから、凡人では考えつかないような発想・センス・表現力をもった創造的な人たちに対して、憧れと敬意をもっていますし、芸術家というものは、誇り高い仕事だと思っています。
ところが芸術家の中には、その誇りを保ちにくい環境にある人が多いということを、ご存じでしょうか。
芸術家が抱える光と陰
私は以前、芸団協(注釈1)という団体で、芸能実演家(音楽・演劇・舞踊・演芸などに携わる人)に関する社会調査を担当していました。一見華やかで楽しそうにみられがちな芸術家ですが、調査の中から浮かび上がったのは、低所得者層が多く、仕事上のケガ等にも保障がなく、雇用基盤が不安定で、仕事をするにも会場や衣装や交通費やチケットノルマ他、多岐にわたる自己負担をしている、といった側面でした。また、仕事に対する意欲と愛情は深く、プライドもあるのですが、社会的信用が低く世間に理解されていないと感じる人も多いのです。
世論調査(注釈2)では約9割が「文化は大切だ」と答えています。けれども現代社会に横たわる、人権、平和、環境、福祉、教育などの緊急課題を前にすると、「腹の足しにもならないもの、無くても生きていかれるもの」と思われがちな文化・芸術などは後回しになり、文化予算は真っ先に削られる対象となります。ただでさえ先進諸国の中では文化予算が少ない方なのに、その多くは文化財保護や、文化施設の建設と管理に使われて、創造者たる芸術家まで届きません。
大事だとは思うけれど、もっと必要な事がある。もてはやすけれど、託さない。芸術は、そのように社会のシステムから少し浮遊したところにあるのではないでしょうか。
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第1回ヘルスケアセミナーのワークショップの様子。copyright I.Yoshioka
同セミナーの健康診断。このセミナーには1日で100名以上の芸術家が参加。copyright I.Yoshioka
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「芸術家のくすり箱」ができたわけ
もし、このまま“なんとなく歓迎するけれど後回し”の状態が続けば、優れた才能がより良い環境を求めて海外に流出したり、国内でさまざまな困難に立ち向かいながら道半ばで挫折したりするという状況は、変わらないでしょう。
日本の芸術界の環境を良くするために、やるべきことはたくさんあります。その中のひとつ、芸術の源泉である芸術家の身体・健康のケアに取り組もうと、「芸術家のくすり箱」ができました。たくさんのデータをみて、たくさんの芸術家の話をきいて、知ってしまったこと、疑問に思ったことを放っておけなくなったのです。
もちろん、身体とその健康は、芸術家に限らず誰にとっても同じように大切です。けれども、芸術家は、職種によってはアスリートと同様に、高度な技能を身につけ、身体そのものを商売道具としています。たとえばピアニストの手やダンサーの足などを思い浮かべれば、どれだけの時間と努力がそこに集約され、どれほど高度で複雑な運動をしているかがご想像いただけるでしょう。そうした芸術家は、その職業特性や運動特性に沿った専門的なケアを要する場合が少なくありません。
「芸術家のくすり箱」では、セミナーを開いて芸術家の健康管理能力を高めたり、芸術家の治療や指導を行う医師、治療師、トレーナー等の方々の芸術家への理解を深めたりするほか、ケガをかかえた芸術家に対し、情報面と資金面からサポートする「ヘルスケア助成」を行っています。
最初のヘルスケア助成がもたらしたもの
ヘルスケア助成第1号は、パフォーマンスシアター「水と油」のじゅんじゅんさんでした。「水と油」は、パントマイムをベースにした、スピード感とシュールなユーモアが溢れる舞台で、世界各国で絶賛され、国内でも大人気の4人組です(注釈3)。そのかけがえのない大黒柱であったじゅんじゅんさんが、重度の椎間板ヘルニアで立つこともできなくなってしまったのは、2005年2月の公演当日のことでした。パフォーマーにとってケガは、単に身体がつらいだけでなく、仕事も収入もアイデンティティもすべて失うほどのダメージを意味します。欧米では、パフォーマーの身体やケガに関する研究が蓄積され、専門のクリニックがあったり、治療師などが公演や練習の場につくなど、さまざまな体制がありますが、日本ではいざ身体を痛めた時に、どうすれば良いのか、まとまった情報も専門機関もほとんど無いまま、「人に迷惑をかけられない」「代わりがいない」と無理を重ねて悪化させてしまったり、「どうすれば良いのかわからない」と途方に暮れてしまうことが珍しくありません。パフォーマーとしての復帰までの道筋が見えなかった時期と、「芸術家のくすり箱」の立ち上げ時期とが重なり、最初の助成対象者はじゅんじゅんさんに決まりました。
ヘルスケア助成期間は、医師の診断の下、治療・リハビリ・トレーニング・栄養管理を行い、3ヶ月毎に身体の組成と機能のデータを計測しました。ダンサーの身体科学に詳しいお茶の水女子大学の水村真由美先生と、アスリートやダンサーの故障からの復帰に多数の実績を有するリアルフィジカル・トレーナーズの西原正成先生のご協力を得て、プログラムを開始したのが2005年6月。じゅんじゅんさんの高いプロ意識に支えられた努力が実り、2005年10月には小作品への、翌2月末には大作への復帰を果たされました。
高度に身体を使う芸術家がケガから復帰するための専門的なリハビリには、ほとんど保険がききません。多くの芸術家は雇用されておらず、身体の故障は失業と同義になり、リハビリが必要だとわかっていても、継続するためにかかる費用を持ちきれない状況です。その費用を心配せずに、時期を逃さずリハビリに集中できる。その点で「芸術家のくすり箱」は役割を果たせたのではないかと思います。
クリエイティブな才能あふれる芸術家が、元気になってまた新しい作品を生み出してくれる。その舞台をたくさんの人たちが楽しんでいる--復帰公演は私たちにとって、最初のモデルケースがすばらしい出発をしたという喜びと共に、観客としての純粋な幸せをたっぷり味わわせてくれました。彼の成功例は、同じようなリスクを抱えた芸術家たちにとって、大きな希望となったことでしょう。
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じゅんじゅんさんの身体機能計測の様子。
舞台でのじゅんじゅんさん。copyright T.Aoki
少人数制による、丁寧な指導が好評だったテーピング講座。
参考になったカナダの専門機関、Artists’ Health Centerの一室。
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「芸術家のくすり箱」の今とこれから
「芸術家のくすり箱」は、まだ生まれたばかりの団体ですが、幸い志を共有し協力して下さるさまざまな分野の専門家や、理解あるサポーターが少しずつ集まり始め、先頃法人化に向けて一歩を踏み出しました。
芸術の源泉は人、つまり芸術家です。もっと芸術家が誇りをもって元気に働ける環境を作りたい。そして、もっと良いものをたくさん生み出し、社会に刺激を与えてほしい。そんな思いで、「芸術家のくすり箱」はセミナーや研究、助成、保険などのサービスの充実を目指しています。そして、一人でも多くの方に、芸術界の環境を整えることの大切さを知り、それをつくるプロセスを楽しめるサポーターになっていただけたらと願っています。創造的な人間が誇りを持てる社会のために。
(注釈1) 社団法人日本芸能実演家団体協議会
(注釈2) 内閣府「文化に関する世論調査」。最新版は平成15年調査
(注釈3) 現在4人での活動は休止中
<お知らせ>
芸術家のくすり箱セミナーシリーズ Summer 2006
Dance Wellness Day [7月23日(日曜日) at 森下(東京都江東区)]
医師、治療師、トレーナーとダンサー・指導者のための1日集中セミナー
7月23日(日曜日)10時~20時30分
http://www.artists-care.com/ |

福井 恵子
【Keiko Fukui】 |
プロフィール
9歳の時、日本の舞台芸術界の基盤整備の仕事を志す。お茶の水女子大学文教育学部卒。信託銀行員を経て社団法人日本芸能実演家団体協議会に勤務。「芸能白書」「芸能実演家の活動と生活実態調査」「全国オペラ団体実態調査」機関紙「芸団協ジャーナル」等の企画・制作・執筆を担当、舞台芸術界の基礎統計整備に貢献。02年度文化庁派遣によりコロンビア大学芸術文化研究所にてダンサーのキャリア転換に関する国際比較研究(aDvANCE Project)に参加。多数の舞台鑑賞や芸術関係者との交流を通して、芸術活動環境の基盤整備の必要性を痛感。「誰も着手していない、必要なサービス」を立ちあげようと思い至り、05年7月に独立し「芸術家のくすり箱」を設立。
芸術家のくすり箱
『芸術家のくすり箱』は、芸術家のヘルスケアを多角的にサポートすることによって、日本の芸術家が貴重な才能をつぶすことなく、花開かせていけるしくみをつくりたいという考えから生まれたプロジェクトです。芸術家が“元気に”活躍することで、より多くの人々に芸術を楽しむ機会が生まれ、もっともっと社会が元気になる-そんな循環をつくることを目指しています。
〒103-0014 東京都中央区日本橋蛎殻町1-26-9 NSビル26 4階 株式会社アントレプレナーセンター内
http://www.artists-care.com/
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